『ち』 昼想夜夢 ちゅうそうやむ

昼に想い 夜に見る夢

いちにちじゅうアタマからはなれない想いが在る
くりかえし
くりかえし
ココロの中で反芻される想い。

時にそれは消化され わたしの血潮をさざめかせながら
わたしのカラダを駆け巡る。

それをあらたな糧としてココロの中に生まれてくるたくさんのコトバ
コトバが集まりあらたな想いとなったとき
わたしのココロに溜まってゆく。

くりかえし
くりかえし

反芻された未消化の想いは
たくさんのコトバに還元される。

還元されたコトバをひとつひとつ確かめるうちに
まとわりついている想いが絡まり
わたしは
妄想の中に引き込まれる

昼に想い 昼に見る夢

昼日の下で見る夢はその明かるさに透きとおり
さらにわたしをututuから引き剥がしにかかる。

それに抵抗することも
あえて身を任せてしまうことも それはそのときの気分次第。

身を任せ儚い陶酔感にココロをゆだねているあいだにあたりはすっかりと暗くなる。

そして夢もその姿を変える

昼に想い 夜に見る夢


透き通っていた昼日夢はいきなり現実の夢となり
わたしをututuへと引き戻す。

yumeという名のututuの不思議


昼に貴方を想いつづけ
           夜に見る貴方の夢は
                     決してわたしを惑わさない

yumeという名のututuのもとに



貴方と同じ時を共有し 同じ夢が見れたなら
おなじyumeに棲めたなら そこは確かなututuとなる


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# by fusyou-kumahachi | 2006-05-21 04:52 | ututu

『た』 掌 たなごころ

祈りにも似た想いを籠めてあわせた手をそっとひらく
祈りにも似た想いを確かめながら閉じた眸をそっとひらく

わたしの眸に映るのは
大きくもない
小さくもない
ふたつのならんだ たなごころ


のどを潤すのに必要なだけの水
おなかを満たすのに必要な穀物
いくつかの水菓子

砂山を作るためにすくう銀砂
ちいさな貝殻
ちいさなさかな

縁日でであったピンクのひよこ
生まれて10日の子猫
野原でつんだタンポポの綿毛

ふたつあわせた僅かなくぼみに
わたしはたくさんのものをのせてきた

孫悟空をその手のひらで悠々と遊ばせたお釈迦様には敵わないけれど

それでも大切ないくつかの珠を
大切な想いと共に
大事に 大切に
ふたつのたなごころにのせてきた。

幼い頃には幼いなりの
少年の頃には儚い夢を
青年の頃には切実な想いを
こぼしながら 落としながら
それでもそっと包んで未来へと運ぶ
僅かなくぼみに神経を集中させて
精一杯の想いを籠めて

そしていま

わたしの眸に映るのは
わたしのふたつのたなごころの上にあるモノは

貴方に届けるためだけに在る
ちいさな ちいさな
けれどもこぼれてあふれるほどの
ひとつのコトバが結晶した
ちいさな ちいさな 水晶の珠

わたしが手渡すこの珠は
貴方のふたつのたなごころのの上で
あふれてこぼれだすだろうか
ほんの僅かのかたまりとなって
ころり ころり
ほかの珠に紛れてしまうだろうか


貴方のふたつのたなごころを満たすため         
              わたしはコトバを探し集め
                       不純物を昇華させ
                              水晶の珠に結晶させよう




貴方のたなごころと わたしのたなごころ
たくさんのコトバをのせられるのはどちらだろう


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# by fusyou-kumahachi | 2006-05-20 02:53 | ututu

『そ』 空の海 空の鏡   ソラノウミ ソラノカガミ

空の海 そらのうみ ソラノウミ
わたしは蒼穹に果てしない海を見る

空の鏡 そらのかがみ ソラノカガミ
わたしは寒月に冴え冴えと映るわたしの姿を見る

それはututuにみるyume

それは確かにそこに存在する幻影


そこに確かに存在するモノ
そこに確かに在るututu


それはわたしを通り抜けyumeのハザマに堕ちて往く。
ハザマに堕ちた幻影は
わたしの中で漂い続ける

ゆらゆらと ゆらゆらと
たゆたゆと たゆたゆと

その儚い幻影を貴方にも見せたくて
その朧な記憶を貴方に伝えたくて
わたしはコトバを選び出し
ハザマの幻影をututuへと呼び寄せる。


コトバに釣り上げられた幻影は
ututuでたしかなモノとなる

それは確かにそこに存在する幻影


 
 わたしの中の幻影は貴方の中で海になる
           わたしの中の幻影は貴方の中にわたしを映す




貴方の中の幻影はわたしの中に貴方を映す
貴方の姿をわたしはコトバに閉じ込める
それはわたしだけのコトバ


貴方の中のわたしの姿を
貴方はどんなコトバで表すのだろう

いつか
そのコトバがわたしのyumeに届くだろうか



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# by fusyou-kumahachi | 2006-05-19 03:15 | yume

『せ』 刹那 せつな そして 劫 こう

刹那     きわめて短い時間。瞬間。念。

       ほとんど無限ともいえるほどの長い時間の単位。


わたしが今 生きている時間は刹那である。
きわめて短い時間を 重ねて 重ねて 生きている。
長い 永い yumeを見ているようなハザマの時間も
ふりかえってみれば 刹那である。

刹那を生きると言う事はとても虚しいことのようにも思える。

刹那に生きて
振り返らず
何も遺せず
やがて刹那に還る。

では、なぜ生きているのか

生まれてきてしまったからには生きるしかない。
たとえそれが刹那であろうと

だれかが
もう、死んでもいい と言ってくれるまで
わたしは刹那を生きていく。


それでも刹那に生きるモノとして
yumeのなかに潜むだけでなく
ututuに何かを遺せるとしたら
わたしは迷うことなくコトバを貴方に遺すだろう。


それはわたしと貴方の間に積みかさなり、いつしか劫を得るかもしれない。
それは紛れもない
わたしと貴方がこの刹那に生きた証となる。

そして

刹那は劫に昇華する


わたしが貴方に遺した刹那が
いつしか劫に昇華するための祈りをこめて
わたしは幾つものコトバを遺そう

            
            貴方のyumeに
                     貴方のututuに




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# by fusyou-kumahachi | 2006-05-18 00:38 | yume

『す』 酔夢 すいむ  酔って見るyume

        酔夢    酒に酔い、眠ってみる夢


わたしは普段、酒を飲まない
特に誓いを立ててのことではない
体のことを考えているわけでもない

単に体が受け付けない それだけのこと。
酔いがわたしに訪れる前に、酒がわたしの体から、強制的に去ってゆく。


それでも稀に酔うことがある。
本当にココロを預けてしまえる人と
ゆっくり ゆっくりと飲み交わしたとき
はじめて陶酔感が訪れる。

そんな時にはわたしにも、本来の意味での酔夢が訪れる。
いままで、ほんの数回だけ、見た夢。



それではわたしは普段から酔夢を見ないかというとそんな事はない。
それどころか、ututuの中でyumeに陥る。
何かに酔って、眠らずに ututuでみるyume

それがわたしの 酔夢   酔ってututuでみるyume


酔ってしまう対象は実に様々で
日により、時により、くるくると変わる。

ふとした貴方の仕草だったり
雑誌で出会った写真だったり
コラムの中の一文だったり
ふと耳に飛び込んできたウタだったり ワライゴエだったり


酒に酔ったカラダが温かくなって 地に足が着かなくなるように
何かに酔ったココロの温度がふわりと上がり カラダから離れていく


行き着く先はututuの中のyume 


普段はututuに留まるために自制を効かせるわたしだが、
酔夢が訪れるとき
あえてyumeに身を任せ、短い陶酔感にココロを委ねる。

そして

わたしに特別な酔夢を見せるのは
貴方のさりげない それでも とても愛しいひとつのコトバ

さりげない会話の中のひとつのコトバ
書かれた文字の中に浮かぶひとつのコトバ

貴方だけが持つ、至福のコトバ


コトバがわたしをututuに繋ぎとめ
             コトバがわたしを酔夢に誘い
                       至福のひとときを過ごさせる。




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# by fusyou-kumahachi | 2006-05-16 03:16 | yume

『し』 心配 しんぱい  失踪日記

これはわたしの「失踪日記」

以前、わたしは数日間失踪した。

というと、いかにも何かがあったと思われるかもしれないがそうではない。
わたしはなにひとつ変りの無い生活をしていたのだが、
ある人物が、わたしが失踪してしまったのではないかと心配してくれていた。

仮にもふつうに社会生活を営んでいるので、この年齢になってまで
失踪したのかと心配されるとは思わなかった。

ある人とは、当時、3年ほど前から仕事上の付き合いのある、『彼』

彼とは年齢が近いこともあり、お互い仕事以外の話はほとんどしないが
それでも時々僅かなプライベートな話をする程度の間柄。

大概の事は電話での打ち合わせで済むが、まれに顔を合わせる必要性が生じる。
そのときは彼の職場がわたしの自宅に極めて近いので、
わたしから彼の職場に足を運ぶことにしている。
彼もわたしの自宅は知っているので、必要な資料をポストに届けてくれるが、
顔を合わせて受け渡しをする事はない。

そんな、あくまでも仕事上のパートナーとして、それでも3年間の積み重ねがある
そんな関係。

ただひとつ、いまどき珍しいかもしれないが、
携帯の番号を交換することが無かった。

別に隠す必要は無かったのだが、わたしの自宅の番号と、
彼の職場の番号だけで
事足りていたのだ。


水曜日
彼といつもどおりの打ち合わせを電話で済ませ、その際、ちょっとした
トラブルがあるかもしれないことを伝えておいた。
仕事上には差しさわりが無いこともあわせて伝えた。

木曜日
トラブルが現実のものとなったので、彼に連絡を取ったがあいにく留守だったので、
仕事は予定どうりだから安心して欲しい旨言伝を頼んだ。

金、土、日、月とトラブルの処理ほかで帰宅が遅くなった。彼からの留守電が
土曜と月曜に入っていたが、携帯の番号を知らなかったので、連絡をする術が無かった。
週末を挟んでもいたし、普段は週一のペースで連絡をとる事も稀だったので
「まあ、いいか」
と言う気持ちも働いた。

火曜日
彼からも電話がなく、わたしも仕事上の必要性が無かったので連絡をとらなかった。
余裕も無かったのだが。

そして、ちょうど1週間後の水曜日
電話から聞こえた彼の声は、安堵に満ちていた。


「連絡が取れないので心配しました。
                   声が聞けて ほんとに ほんとによかった。」


 
言葉にはしなかったが、トラブルでわたしが失踪でもしてしまったのではないかと
本当に心配していてくれたらしい。
こちらにとっては予期していたことだったのでそれほどショックは受けなかった。
だが、内容までは知らなかった彼にはショックだったようだ。

今まで連絡が取れなかったことも確かに無かった。
それが彼を必要以上に不安にさせたのだろう。

共通の知人と連絡を取った際にもわたしのことを尋ねたらしい。
後日、その人からも彼の心配振りを聞かされた。
その人とも、その前後はたまたま連絡を取っていなかったので
彼の不安は解消されなかった。
ただ、わたしのことをよく知っているその人はさして心配もしなかった風で、
彼の様子をわたしに伝えた後
「そんなに心配なら、ウチまで様子を見に行けばいいのにな。近くだろうに」
と付け加えた。



さて、ここまで貴方にはわたしの言いたいことが判っていただけているだろうか


『近く』と言うコトバが表しているのは、わたしと彼とのphysicalな距離
『心配』 『よかった』と言うコトバが表しているのは、わたしと彼とのspiritualな距離


physicalな距離はコトバどおりに≪近い≫
spiritualな距離は果たして≪近い≫と貴方は思うだろうか

『心配』 『ほんとによかった』と言う言葉に嘘はない。
それは実際に聞いたわたしも、知人の話からも判る。
それだけを考えるとspiritualな距離もとても≪近い≫とおもえる。

physicalにも、spiritualにも≪近い≫関係があるとしたら
それはわたしにとって、とてもうれしいことである。

けれど、彼の『心配』はphysicalな距離を埋める事はなかった。
≪近い≫距離の我が家に彼は訪れることは無かったのである。

仕事がら、郵便物が多く、新聞もとっているわたしのポストを覗くだけで、
彼の心配は半減していたはずだ。
ポストを覗けば、少なくともわたしがきちんと毎日帰宅していることだけでも判ったと思う。
そんな簡単なことを、彼はしなかった。


わたしと彼のspiritualな距離が≪近い≫としたらそれはどれくらい≪近い≫のか


そして、わたしはコトバのハザマに陥ってしまう。
≪近い≫と言う大切なコトバの持つほんとうの距離がわからないままに



           
   貴方は大切な人とのspiritualな距離を
                     どんなコトバで測っていますか




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# by fusyou-kumahachi | 2006-05-15 03:08 | ututu

『さ』 最優先 サイユウセン

                  ≪ 最優先 ≫

貴方の中の最優先は何ですか

仕事
家庭
子供
趣味
貯蓄
・・・・・ ・・・・・

大切な人と過ごす時間




                『轢かれた猫を救わない』

コトバだけみると衝撃的な一文


 これは、先天的障碍を持った娘さんを育てている方が
新聞に連載されている記事の昨日のタイトル。



 彼は幼い頃から猫を飼っていて、その死にも出会っていた。
神経質な彼は、全世界の猫の死に心を痛め、その責任を感じていた。
だから、路上で猫の死体を見つけると、おびえながらも埋葬し、
息があれば必ず獣医に運んだ。

 大人になった今日、路上で見つけてしまった、
何らかの感染症を持っている可能性のある野良猫を車に
乗せてしまったら、障碍を持つ娘さんに感染するかもしれない。

娘さんがいるから、何もかもを、するわけにはいかない。
優先順位をつけなければいけない。
 
娘さんに僅かの危険も引き寄せないために、
彼は、生まれて初めて轢かれた猫を見捨てた。

 彼は、虫の息の猫を、歩道の脇に横たえて、タオルを掛ける。
子供を持って初めて、幼い頃の拘りのひとつを、棄てることができる。




本当はここに全文を記したい。
拙い要約だが、貴方に伝えることができただろうか。

「轢かれた猫を救わない」という1文の中に、書いた人の
とてつもない強い意思と決意が感じられる。
だれが、何を言おうと、誤解を招こうとも、
その日、彼は確かな決意の元、最優先を選び
それをコトバとして記した。

もちろん、内容を読んでまで彼の行為に言いがかりをつける人が
数多くいるとは思わない。
ただ、タイトルを見ただけでは驚く人が多いだろう。
毎日彼の文章を読むために新聞を待っているわたしでさえ
大きな文字のタイトルを見たとき、少なからず驚いた。


大切な人、守りたい人ができたときその人が最優先になる。
当然いままでの最優先の順位は下がってしまう。
自分の中で、優先順位をつけなおさなければならない。

その痛みに代えても
棄てることができなかった拘りさえも手放し

それでも

なににも代えて守り抜きたいのは

           大切な、たった一人の 貴方だけです




貴方の最優先は何ですか

自分のことですか
大切な人の存在ですか






わたしはここで自分のコトバを確かめることを試みている。
だから、できうる限り自分の言葉以外は載せないということを心がけていた。
だから、今日の記事は、わたしにとってはルール違反もはなはだしい。
けれど
今日のタイトルを「最優先」と決めたあと、目を通した新聞でこの話を読んだとき
『縁』を感じてしまった。
ので
それを優先させてしまった。
まだまだ始めたばかりなのに先が思いやられる。
それでも読んでくれた貴方に
                              ・・・arigatou gozaimasu




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# by fusyou-kumahachi | 2006-05-14 01:47 | ututu

『こ』 声 聲 コエ

コトバを貴方に伝える方法は二つ

   ≪読む≫
   ≪聴く≫


貴方がこのどちらかの行為を行わない限り、わたしのコトバは貴方に伝わらない。
貴方は今≪読む≫ことで
わたしのコトバを受けとめてくれている。


常にこのどちらかの方法で
たくさんの言葉が
たくさんの人々の間を行きかっている。

貴方と、貴方の大切な人との間ではそのどちらにも頼らない
コミュニケーションがあるかもしれない。

目をみかわしただけで伝わるコトバもあることをわたしは経験で知っている。

それでも
まだ出会っていない貴方に伝わることを願って
わたしはここにコトバを記す。
貴方に≪読んで≫もらうために。


貴方がわたしのコトバを読むとき、どんな声が聞こえているだろうか。

自分の声
聞きなれた身近な人の声

そんなことは考えていない人が大半だろう。

わたしは自身で記すコトバをわたしの声で読んでいる。
大切な人が書いてくれたコトバを読むときには、その人の声が聞こえている。


≪聴く≫ことでコトバが伝わるとき
そこには文字で伝わる以上の様々な要素が加わってくる。

同じ言葉を選んだとしても、
話す人の感情、口調、抑揚で伝わるイメージは様々に変わる。

メロディにのせて
より確かなイメージを伝えようと試みることもこともあるかもしれない。


そして・・・声


いい声がいいコトバを伝えるとは限らない。
いい声と感じる基準も人それぞれだろう。

それでも声がコトバの印象を大きく左右していることは否めない。
ふさわしい声に語られたコトバはそれだけで
貴方の心に強い残像を残すだろう。


わたしがこのコトバをより正確に貴方に伝えようと思ったとき
だれに朗読を依頼するだろう。


貴方の好ましく思う声は誰のものだろうか。

 
 わたしのコトバを受け取ってくれた貴方の中で聞こえてくる声が
 愛しい人のそれならば
 わたしのコトバはその瞬間に
 幸福に包まれ貴方の心に溶けてゆく。



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# by fusyou-kumahachi | 2006-05-13 04:09 | ututu

『け』 携帯電話 チャクシンオン

夜中近くにかかってきた 貴方からの電話

明日の朝が早いことを知ってはいても
声を聞いていたくて なかなか切ることができない
コトバを探して 
天使が通り過ぎてゆく間も
黙ってわたしを待っていてくれる

そのやさしさにいつまでも甘えていたい

そのココロを突然ざわつかせるのは
貴方の携帯から聞こえる
メールのチャクシンオン

コロコロと 貴方には似合わないかわいいオトで
貴方をどこからか呼び出しているヒトがいる

貴方は聞こえないフリをして わたしとの話を続けてくれる
10分おきに 3回

3回目にわたしは耐え切れずに声をかける

「ごめんなさい もう切るね?」

貴方は困ったように笑いながらこたえる

「きこえた?ごめんね。向こうに追いやっておいたんだけれど」

貴方を呼び出しているのは誰なのか
そこに答えはない

「おやすみなさい」を交わしてもわたしは眠りにつくことが出来ない

今貴方を独り占めしている誰かに嫉妬する
それが忙しい貴方の仕事でも
ほかの誰かでも

わたしはいつも不安になる
遅い時間にもかかわらず 電話を掛けてきてくれる貴方のココロを
「声を聞けて話ができることが 安心するから」
と メールではなく 時間をとってかけてきてくれるココロを

わたしも何より貴方の声を いつまでも聞いていたいほど大切にしているのに

そこにはいない誰かのチャクシンオンに ココロを乱されてしまう
わたしのココロの 情けなさ

貴方を信じているのに
貴方を誰よりも大切に思うのに

声を聞くより
いま
貴方の温もりを近くで感じたい
貴方の一番傍にいたい

携帯の電源をそのひとときだけは
切っていて下さいと願いながら


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# by fusyou-kumahachi | 2006-05-12 12:00 | ututu

『け』 携帯電話 ケイタイ-デンワ

わたしが物心ついたときに家にあるのは黒いダイヤル式の電話機だった。
社会に出た頃でさえ携帯電話を持っている人は少なかった。

初めて一人暮らしをはじめたとき
狭い部屋に引いた一本の電話がわたしと外を繋いだ。
そこでわたしは誰にも気兼ねなく電話を受ける空間を手に入れた。

それでも
電話を掛けるときにはかなりの気を使わざるを得なかった。

大抵の家に電話は一台しかなかった。
(それは今でもあまり変わっていない)

玄関であったりリビングであったり
それぞれの家での電話の存在は
publicなものだった。

学生時代に自分専用の電話を持っているものなどほとんどいなかった。
一人暮らしをしていて部屋に電話を引いている友人はもちろんいた。
でも
自宅から通学している友人も
学生寮に入っている友人も
電話口まで呼び出してもらわなければ話はできなかった。

誰かと話をするために それ以外の人と話さなければならない確立は高かった。

自宅から電話を掛けるときも、そこにはpublicな空間があった。

友達と他愛の無い話をするときも
単なる事務的な連絡をするときも
常に回りを意識し、コトバを選ばなければならなかった。

家族の寝静まったころあいを見計らってこっそりとリビングに入りこみ、
時計を見ながら 電話の前で待ち合わせ、1callであわてて受話器を取り上げる。

大切な人と

思いをこめた言葉をささやきあう僅かな時間を無駄にしないためにも
わたしはコトバを慎重に選んだ。

そんな時を過ごしてきたわたしの心に残る歌がある。
昨年来日していたスティビー・ワンダーが出演した番組で唄われたこの曲を
貴方はどんなふうに聞いただろうか

      『 I just call to say I Love You 』


若い方ならCMで聞いたことのある曲だなぐらいにしか感じなかったかもしれない。

          ‘‘新年でも、何の特別な日でもない
                 ただ、貴方を愛していると伝えるだけの電話”


こんな電話を掛けることを ためらうしか出来なかった自分を
今でも切なく思い出す。

そして

だれもが携帯電話を持つようになった今。
電話はplivatな存在になった。

簡単に相手につながる言葉は 簡単にその場に解けてゆく。

口に出す言葉だけではない。

こうして書いた言葉まで 簡単に 相手に届くようになった。
簡単に届いた言葉は次々と重なり 新しい言葉の中に埋もれてゆく。


貴方のことを考え
想い
伝えてきたコトバ


あまりにも手軽になった言葉たちが
目の前を飛び交っている。


わたしでさえ

携帯できるコトバを簡単に 貴方に伝えているかもしれない。


それを許してもらえるのならば
たった一通のコトバを大切に 携帯の中に残してくれている貴方に届けたい。


         『 I just call to say I Love You 』



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# by fusyou-kumahachi | 2006-05-12 04:01 | ututu

『く』 空虚 くうきょ void

心の中が空虚だと感じたときヒトはどうするだろう。

心の中に何も無い、本当の虚無を抱えているヒトはいるのだろうか。


わたしの心の中は何によって占められているのだろう。

日々の暮らし

愛しさ
憎しみ
ねたみ
希望
不安

こうして言葉にすれば実に様々なモノが心の中にある。
コトバにできない感情もこれ以上に詰まっている。

では、それらのモノで心が満ち足りているのか?といえば、必ずしもそうではない。
空虚な部分は歴として存在している。

貴方の心の中には空虚な部分はないだろうか?
それを見つけてしまったとき貴方は何を感じるだろうか?

空虚な部分を見つけてしまうと、ヒトはとたんに不安になる。
むなしさを満たすために何かをしなければならないとあせってしまう。
それが新たな不安を呼び、空虚な部分をを満たしていく。

空虚な部分が不安で埋まってしまってもヒトはけっして満足しない。
不安は空虚の大きさを何倍にも大きく感じさせるだけ。


心の中に空虚な部分がある事がなぜそんなに不安になるのだろう。


満ち足りていることだけが幸せだろうか。

おなかが空いた子供のように
ただ何かで満たしたくてあせっているだけなのではないのだろうか。



何かの本で読んだことがある。
      『物事を動かすことのできるのは≪無≫の部分である』



昔 子供のころに遊んだ数字をそろえるパズルのように
ひとつ開いてる部分が全体を動かす。
9個揃っているままでは何も動いてはいかない。


何も無い場所があるからこそ
心の中の様々な感情を動かしていけるのではないだろうか。


ココロの中の≪空≫な部分はこれから貴方が手に入れる
新たな感情をおいておくための空間

置きどころの無い悲しみをほんの一時置いておける空間

あふれ出す愛しさをこぼさず受け止めておける空間



   そう考えることができれば

           
             ≪空≫は決して≪虚≫にはならない



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# by fusyou-kumahachi | 2006-05-11 00:55 | yume

『き』 嫌い きらい キライ

わたしは、このコトバを口にするときかなりの気を使う。

嫌い

断定的な否定。

モノに対しても
ヒトに対しても

≪嫌い≫と言った時点でその存在を否定してしまうような気がする。

普段はたいていあいまいな表現を使って済ませる。

「ちょっと苦手だから」
「あまり気が合わない」
「わたしには向いていないようで」

あいまいな表現を使うことで周りとの摩擦を少なくするとともに
自身の心中の負担もあいまいなものにしてしまおうという魂胆である。

嫌うという感情を保つことにわたしはかなりのエネルギーを必要とする。
≪嫌い≫と言うコトバひとつでそのものを切り捨ててしまうことがわたしにはできない。

嫌いなモノ・嫌いなヒトと断定してしまった時点で≪嫌い≫なことに拘ってしまう。
否定的な感情に拘る事は辛いことだ。
だからコトバ自体をあいまいなものにして、拘りさえももあいまいなものにしてしまう。


自身の中の≪嫌い≫の処理はこうして済ませることにしても、厄介なのは外から向けられる
≪嫌い≫と言うコトバである。

貴方にはもうお分かりだと思うが、わたしは人から好かれることより嫌われることのほうが多い。

もちろんわたしもヒトを嫌う。

わたしの嫌いなヒトから嫌われても、お互い様で済ませることができる。
自分が嫌っているのに、相手からは好かれようと思うのは無理な注文だと思う。
「きらいでけっこう すかれちゃこまる」というやつである。(ガキである)
それでもお互いに表面上は何事も無いようにうわべを取り繕う分別ぐらいは持ち合わせている。

わたしが好意を持っているヒトから嫌われていると感じたとき、まずはあきらめることから始める。
「縁がなかった」
と言うコトバで折り合いをつける。
そこで付き合いが終わる相手ならばそれでいい。
そこから先、ある程度の付き合いが予想される相手の場合ちょっとつらい。

「嫌い」に拘る以上に「好き」にも拘るからだ。
嫌いという感情はあいまいにすることができるが、好きと言う感情は募るばかりである。
これは恋愛と同じで片恋のときのほうが思いは募る。

そこで頭の中が妄想モードに突入してしまうのだが、困るのは時々頭の中身がもれだしてしまうことである。

予防策として「きらいだ」と口に出して意識のすり替えを試みる。
もちろんひとりの時間に限ってのことだが。

こんどはそれがもれだしてしまう。
夜道を歩きながら「きらいだ」と口に出している自身に気付き
辺りを見回すときの情けなさ。
回りに聞かれたら、かなりの不審者だと思われるだろう。

・・・今回自身の恥をかなりさらしてしまったような気がする。

恥かきついでにここで伝えよう。

わたしに嫌われていると思っている貴方へ

           実は貴方は愛されている


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# by fusyou-kumahachi | 2006-05-10 12:53 | ututu

『か』 仮想現実 バーチャル-リアリティー virtual reality

今、わたしが暮らしているututu
ときおり陥ってしまうyume

彼岸と此岸

現実と仮想現実

今、境目がとてもあいまいなものになってしまった。
これを感じているのはわたしだけなのだろうか?


まあ、彼岸と此岸まで一緒にしてしまうと仏教関係者には叱られてしまいそうではあるが。

いや、わたしにとっては今に始まったことではない。
昔から感じていた
「いま、ここにいることへの違和感」
それがいま、さまざまなrealityのなかで強調されているような気がする。

「いま、ここにいることへの違和感」
これはかなり前から感じている。

自分の家にいても
自分の部屋にいても
大切な人と二人でいても

何一つ不満があるわけでもないのに
至福の時をすごしているはずなのに
時折感じる違和感と「かえりたい」と言う想い。

かえりたい・・・かえりたい・・・かえりたい・・・

何度繰り返してみても
かえる場所があるはずもなく
最後はyumeのなかを彷徨うしかなくなってしまう。

眠って見る夢のなかでのすさまじいほどのreality
現実の中に潜んでいるvirtualな感覚

ここにコトバを残すのはututuにわたしを繋ぐためであるけれど、
はたしてそれさえrealityなのだろうかという疑問が起こる。

いまわたしがいる場所は
だれかが創ったvirtual realityの片隅なのかもしれない。

それでも

  だれかのututuとわたしのututuを重ねるために
                 わたしはここにコトバを遺すだろう
 


そこにいる貴方はどちら側の住人なのだろうか?




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# by fusyou-kumahachi | 2006-05-10 02:20 | yume

『お』 大人心 オトナ--ゴコロ

わたしはオトナである。。
少なくとも、成人式は遥かな昔に済ませている。

わたしをコドモだと思うのは父と母だけだろう。


     わたしはオトナである。
           physicalなわたしに限定して言えばオトナである


ututuでわたしに出会ったあなたもきっとそれは認めてくれるだろう。

さて

physicalなわたしはオトナであるとして
spiritualなわたしはオトナなのかというとこれにはかなり疑問が残る。

この年になって自分がコドモだと口に出すのはある意味気持ちが悪いことなので自分から言う事は無い。

少年のような情熱
少女のような感性

時折褒め言葉として使われるこれらの言葉
いわれた人はけっして悪い気はしないだろう。

ただし、言っているほうが本当に褒めているとは限らない。
大人心の中にほんのわずかなエッセンスとしてこれらが入っている場合に限り
言われた貴方にとってそれは褒め言葉となる。

わたしの中でオトナゴコロはきちんと育っているのかと考える。

社会的には独立し、生活を営んでいる
地域社会とも人並みの付き合いをしている
友人も、自慢できるほどではないが持っている
年寄り受けはいいほうである

果たしてこれらがオトナゴコロがあると言う証明になるかどうか解らないが、少なくともわたしは日常的には年相応の対人関係や社会生活が営めている(・・・と思う)

ただし、それにはかなりの努力を必要としている。

なるべく最初には意見を言わない
頼まれた事は進んでやるがそれ以外の事はなるべく手を出さない
・・・・情けない限りである。
それがオトナのすることかと自分に突っ込みを入れたくなる。
オトナのまねをしているコドモじゃないか。


自分が子供の頃に今のわたしに逢ったらきっとものすごく大人だと感じただろう。

ごめんね
君が思っているほどわたしは大人じゃない


physicalなわたしはオトナだけれど
spiritualなわたしはオトナになりきれていない

けれどspiritualなわたしはもう、コドモでもない

だから不安定な存在なのだろう。


        physicalなオトナの中に在る
               spiritualなわたしのunstable




physicalな貴方はオトナですか?
spiritualな貴方はオトナですか?
                                           

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# by fusyou-kumahachi | 2006-05-09 16:57 | yume

『え』 縁 えにし

わたしは基本的に物事にこだわる性質である。
こだわると言うより、執着するといったほうが正しいかもしれない。

その傾向は人にも、物事にも、物にも
ありとあらゆるものに向けられる。

自分が執着してしまう人に受け入れられない
      執着してしまう物事がうまく行かない
      執着している物が手に入らない


それに自分が耐えられなくなり、しばしば逃避行動として、妄想の世界に入ってしまう。
yumeの中でいくら妄想を働かせていてもututuでは、なにも変わらない。
それは当たり前のこと。

自分をututuにひきもどすための呪文としてわたしは唱える。

縁があればきっとわたしの手許に来る
縁がなければそれまでのこと。


くりかえし、くりかえし、もう何年も自分に言い聞かせてきた結果、かなり有効な呪文になりつつある。

現実から逃避するための呪文ではない。
自分をututuに繋ぎ止めるための呪文。

手に入れるために何もしないわけではない。
できうる限りの手は尽くす。

それでも

どうにもならないututuと折り合いをつけつつ
将来への希望も失わないよう


       
  コトバがわたしを正気のままに
           yumeとututuのハザマから引き戻す。




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# by fusyou-kumahachi | 2006-05-09 00:26 | yume

『う』 嘘・うそ  そして・・・ウ・ソ・ツ・キ・・・

   【
       真実でないこと。また、そのことば。いつわり(広辞苑より)

 あるトラブルがあった。発端はある間違いを起こした少年のついた嘘。

 少年ではあるけれど、もう責任の取れる年齢。周りの大人たちは彼が嘘をついていることはわかっていたのでそれを認めさせ、トラブルを解決すべく動いた。

 少年もやがて嘘を認め、犯した間違いについて謝罪の意思があることを確認した。
 それでいい筈だった。

 そこに出てきたのが、その少年の指導的立場にある人物と保護者。

 彼らは少年が嘘をついていたことを認めてしまうと自分たちの責任を問われることを恐れた。
 ただの親ばかかもしれない。
 彼らの思考回路が出した結論はこのようなものだった。

 「少年は、自分の身を守るために確かに真実と違うことを言った。けれど、それは嘘とは距離のあるものだと思う」

             《真実とは違うが、嘘とは距離のあるもの》

 それを表すコトバをわたしは知らない。

 そのあいまいな観念により、少年にとっての真実さえあいまいなものになってしまった。
 
 結局そのトラブルはいまだに解決していない。
 
 少年の苦しみは続いている。


 
もちろんわたしも嘘をつく。理由は様々だし、それに対して言い訳をするつもりは無い。
そのときについた嘘の結果がどう出ようと自身の責任においてそれを引き受ける。

だから、嘘をつく人をそれだけで否定はしない。
その嘘の内容によってその人を判断する材料にする。
その嘘を、どうしたら真実とすりかえられるか、考える。
嘘をつこうとして言ったコトバの中に、ときたまうっかりと真実が紛れ込んでいるので隙を見てそれを引き出す。
 
 
 わたしは嘘をついている相手に面と向かって「うそつき」と言うことは、まず、ない。

              《貴方は嘘をついている》
       
         わたしはそれを大切な人にしか言わない。



 

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# by fusyou-kumahachi | 2006-05-08 12:30 | yume

『い』 いつでも・どこでも・だれとでも

5月8日になりました。
ここに、このブログの開設を宣言いたします。


 ということで、ふつうはこのあたりで自己紹介なり、プロフィール公開なりを
するところなのだろう。

 申し訳ないけれど、今はするつもりがありません。
 年齢・性別・そのほかのことは、おいおいわかっていただけると思う。

 自己紹介に代えて、ブログタイトルの由来をひとつ。

 このタイトルと、HNをみて、某カメラマン関係と思われた方が、もし、いたら。

申し訳無いが、何の関係もありません。強いていえば、唯の一ファン。
 
 ただ、彼の本の題名に使われたこの言葉が、いつも頭の中にある。

            『いつでも・どこでも・だれとでも・』

 わたしには永遠に不可能なテーマとして。

 
 
 たぶん、このコトバの元は、
            「いつでも・どこでも・だれにでも」

 これはカトリック教会の“カトリック”の由来とされるギリシャ語の“カトリーカ”の意
 ・・・『普遍的』からきているらしい。

  『普遍的』というコトバもわたしにはとても遠いもののひとつ。
  
  あてはまらないことが多すぎる。

  それでも

 ututuに生きていくために。
 


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# by fusyou-kumahachi | 2006-05-08 00:59 | ututu

『あ』  あした かがやく

あしたをこのブログの開設日にしようと思います。

特に理由は無いのですが、決めました。



輝く気は全然無いのですが、思いついた言葉をタイトルにしました。


たぶん、こんな風に毎日が過ぎていくでしょう。


ututuのなかでみるyume

yumeのなかにあるututu

摑まえられるのはコトバだけ



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# by fusyou-kumahachi | 2006-05-07 11:21 | ututu

まずはここから

はじめまして
fusyou-kumahachiと申します


ただいまこのブログを始める準備をしております。

本人が常にふらふらと妄想の世界にはいってしまい、
yumeとututuのハザマで暮らしています。

言葉をここにならべる事でututuとのつながりを保っていけたら。

いつでも・どこでも・だれとでも

どうぞ
よろしかったらお付き合いください。
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# by fusyou-kumahachi | 2006-05-07 02:04 | ututu